最高の人事施策は、社長が自ら挑戦することだった

最高の人事施策は、社長が自ら挑戦することだった

中小企業の支援をしていると、不思議な会社によく出会う。

競争の少ない安定した業界で、しっかりと収益があがっていて潰れる心配もない。世間の物差しでいえば「いい会社」だ。なのに、中で働く人が、誰も楽しそうじゃない。挑戦しようとする人が、なぜか煙たがられる。——そういう会社(会社に限らず組織と言えるもの全般)が驚くほど多い。

なぜ「いい会社」で、人は楽しそうじゃないのか。長く人と組織を見てきて、私がたどり着いた結論は、拍子抜けするほど単純だった。——最高の人事施策は、立派な制度でも、手厚い評価でもない。社長が、挑戦することだ。

目次

挑戦すると咎められる会社がある

支援の現場で、私は何度も同じ風景を見てきた。

挑戦すれば煙たがられ、失敗すれば吊るし上げ。だから、誰も新しいことをやろうとしない。中には、社員があまり働かなくても回ってしまうほどヒマな会社さえある。安泰で、波風が立たず、そして——静かに、意欲がしぼんでいく。
昨日の「やってみたい」が、今日の「まあいいか」になり、明日の「どうせ無理だ」になる。そうやって、人は静かに錆びついていく

正直に言えば、これは外から眺めただけの話ではない。私自身、会社員時代、まさにそういう空気の中で働いたことがある。企業のバックオフィスで、会計から労務、採用、情報システムまで、会社のいろんな仕事を実務として携わってきた。肩書きとしては、何でも屋に近い。

でも、いくつもの角度から会社を見られたことが私の財産になった。お金の流れも、人の出入りも、現場の仕組みも見ているといやでも気づく。——結局、すべての結節点に「人」がいる。どんなに良い仕組みを作っても、動かすのは人で、その人がやる気を失えば、全部が止まる。

だから私は人に興味を持った。マズローを読み、ハーズバーグを読み、ドラッカーやアドラーをかじった。多くの本を読み、また人事に関する実務検定もいくらか受験した。そのうちに、人を本当に動かすものは、人事の技術ではなく、もっと根っこの「経営なのではないかと思い、中小企業診断士の勉強を始めた。

そして、私には優秀な若い部下たちがいた。彼らを見ていて、私はただ、「この人たちに、先が見える会社にしてあげたい」と思った。立派な理念ではない。目の前の人が、ゆっくり曇っていくのを見るのが嫌だっただけだ。

その小さな願いが、私を無謀な挑戦へと押し出していく。

最高の人事施策は、リーダーが挑戦すること

なんとか空気を変えたくて私は動いた。色んな部署を巻き込み、いくつものプロジェクトを立ち上げた。連携してくれた別の部門の長とは、確かな成果に二人で喜んだのを覚えている。

そして——巻き込まれた人たちが、楽しそうだった。さっきまで「まあ、こんなもんか」と働いていた人が、前向きにプロジェクトに取り組み、真剣に成果を出すべく動いてくれた。

そこで、はっきりと見えた。人は、挑戦の中に巻き込まれたとき、生き返る。 報酬を上げたからでも、制度を変えたからでもない。「自分が、いま何かを動かしている」——その手応えだけが、人を内側から動かすんだと感じた。

最高の人事施策は、リーダーが挑戦すること。そして、その挑戦に、人を巻き込むこと。これは机の上の理屈ではなく、あの現場で、私の手の中で起きたまぎれもない事実だった。

では、なぜ報酬や制度ではここまで人は動かないのだろう。

なぜ、制度や報酬では足りないのか

挑戦が咎められる会社は、たいてい待遇そのものは悪くない。給料も、安定も、雇用も、ちゃんと満たされている。世の中の人事制度が用意したがるものはほとんど揃っている。なのに、やる気も、挑戦も、生まれない。

膝を打ったのは、ハーズバーグの「二要因理論」だ。給与や安定は「衛生要因」——足りないと不満になるが、満たしたところで、やる気が上がるわけではない。やる気を生むのは別物で、達成感や、成長や、仕事そのものの面白さだという。挑戦を殺す会社は、まさに衛生要因が満点で、動機づけ要因がゼロなのだ。
衛生要因が満たされている職場は極端に離職率が低いが、動機付け要因が満たされていないと人の目は曇っていく。

そしてもう一つ。私は昔から、評価制度だ、1on1だ、サーベイだと「手段」を並べていく進め方に、どこか違和感を持ってきた。手段が悪いのではない。ただ、その手前にあるはずのもの——社長自身が挑戦しているか、社員自らも挑戦していいという空気があるか——が抜け落ちたまま手段だけを積み上げても人は白ける。アドラーに至っては、「アメとムチ(賞罰)で人を動かすこと自体が、人を縦の関係に縛り依存させる」とまで言う。私の違和感は、こういうことだったのかと腑に落ちた。

もっとも、これは私が偏っているだけかもしれない。でも、少なくとも私が見てきた現場ではいつもそうだった。

とはいえ、「社長が挑戦しろ」なんてことは、どの教科書にも書いていなかった。長いあいだ、これは私の感覚でしかなかったのだ。

理論も、実は同じことを言っていた

だから、自分の感覚を裏側から支えてくれる言葉に出会うたび、私はこっそり嬉しかった。

マズローは自己実現を語り、アドラーは「貢献感こそが幸福だ」と言う。私自身が何にワクワクするのかを内省して、難しいことに挑むこと・裁量があること・与えた影響を感じられること、と書き出していたのだが——のちに診断士の勉強で「職務特性モデル」に出会ったとき、本当に驚いた。私がノートに整理していたことが、ほぼそのまま、理論になっていたからだ(この話は、別のコラム「ボスとリーダーの違い」で詳しく書いた)。

ただ、正直に言っておきたい。私が読んだ本——マズロー、ハーズバーグ、ドラッカー、アドラー——のどれも、「社長“自身”が挑戦することが、最大の動機づけだ」とは、はっきり言ってはいなかった。その主語は、どうやら、私が読んでこなかったリーダーシップ論の側にあったらしい。

つまり私は、何かを独創したわけではなく、人と組織に興味を持って歩いていたら、別の部屋に置いてあった答えに、たまたま自分の足で辿り着いた(世の中100%の正解なんてものは存在しないのかもしれないが)。それだけのことだ。それでも、人から借りてきた知識より、ほんの少しだけ、自信を持って言える気がしている。

——その自信を、私はこなごなに砕くことになる。

ただ、挑戦は、人を傷つけることもある

ここで、どうしても正直に書いておかなければならないことがある。

私の挑戦は、失敗に終わった。

成果は出たように思う。巻き込まれた人たちは、いつもの勤務中の態度とは違って、前向きに、いろいろなことに取り組んでくれているように感じた。私はそれを見ながら、これを何度も繰り返していけば、関わった人たちの影響で、社風そのものを変えられるのではないかと思った。

でも、社風を変えるには、至らなかった。挑戦は、文化にはならなかった。
一時しのぎに、しかならなかったのだ。

今思えばあの挑戦は無謀だった。組織から見れば、私は異物で、反発が起きるのは当然だった。今は、それもよく分かる。それでも、あの経験は、何にも代えがたいものを私にくれた。

ただ——今になって、胸が痛むことがある。私が挑戦に巻き込んだ人たちは、一時は確かに楽しそうだった。けれど、挑戦をよしとしない社風の中で、彼らは「浮いた存在」になってしまっていたのではないか。私は、関わってくれた方々の人生にマイナスを残してしまったのかもしれない。

「人は挑戦で生き返る」——これは、私がたまたまそう配線されているだけなのかもしれない。安定を心から望む人を、私は心のどこかで「挑戦しない人」と決めつけていた節があるが、それは傲慢だったと思う。

でも——挑戦を咎める会社の人たちは、本当に、最初から挑戦したくなかったのだろうか。

「挑戦しない会社」ではなく「挑戦を殺す会社」

そうではない、と私は思う。

こういう会社の人たちも、たいていは、最初から諦めていたわけではない。若い頃は「この会社、どうやったら良くなるかな」と議論し、目を輝かせていた人が、いつのまにか、一人、また一人と諦めて、上司の顔色を伺って仕事をするようになる。

きっと、働く皆さんは、挑戦したくなかったのではない。挑戦したい気持ちを、組織が、風土が、ゆっくりと、そして確実に、殺していったのだと思う。 挑戦すれば後ろ指をさされ、失敗すれば吊るし上げられる。そんな場所で、誰が二度目の挑戦をするだろう。それは「誰も挑戦しない会社」ではなく、「挑戦したい気持ちを殺してしまう会社」だ。

そして、こうも思う。この空気は、一社員の立場では、なかなか変えられるものではない。挑戦を一時しのぎで終わらせず、巻き込んだ人を最後まで守りながら、文化にまで育てていく——それができるのは、最終責任を負える人間、つまり社長だけだ

「挑戦していいよ」と口で言うのは、簡単だ。でも、言葉はタダで、誰も信じない。それが本物になるのは、社長が自分も挑戦してリスクを取って見せ、そして失敗を罰しない——むしろ守る、と行動で証明したときだけだ。私はかつて、挑戦して見せることはできた。でも、守ることが、できなかった。守る力が、なかったから。

だから私は、自分の手で、守れる場所を作ることにした。

会社を出て、起業したのだ。

では、社長は、何をすればいいのか

難しいことではない。あの失敗から私が学んだのは、たった一つ。「挑戦していいんだ」と、社員に心から思ってもらうこと。 それが、すべての土台だ。

これは、近年よく耳にする「心理的安全性」——失敗しても、率直に意見を言っても、咎められない、という安心感——とも、根っこは同じだ。挑戦していい会社は、間違いを責めない会社でもある(この点は、別コラム「ボスとリーダーの違い」でも触れている)。

社長がやるべきは、全員を同じ方向に走らせることではない。「ここは挑戦していい会社だ、関わっていい会社だ」という空気——いわば企業風土を、自分の背中で作ることだ。その風土の中でなら、人はそれぞれ持つ異なった能力を最大限に発揮しだす。ある人は大きな挑戦で。ある人は自分の仕事を究めることで。ある人は自分の小さな働きが誰かの役に立った、というささやかな実感で。

そのために、私が大事にしていることが、四つある。

ひとつ、挑戦させること。
ふたつ、裁量を、その人が抱えきれる範囲で渡すこと。抱えきれない裁量は人を潰す。私はそれで人を傷つけたことがある。
みっつ、「ちゃんと見ているよ」と伝わるようにコミュニケーションをとること。
よっつ、感謝を伝えること。

最後の二つには、コツがある。「見ているよ」は、見ただけで終わってはいけない。見て、その人の扉が何かを見極めて、実際にその扉を開ける。挑戦したい人には挑戦を、究めたい人には邪魔をしない時間を。見るだけで何もしなければ、それはただの監視か、お世辞になってしまう。

そして「感謝」。私は「えらいね」と褒めるよりも、「ありがとう、助かった」と言うようにしている。褒めるのは、どうしても上から下への評価になる。でも、感謝は対等である。会社の中において役割が異なるだけで、人間同士の付き合いには上も下もない。

——ここまで人の話をしてきて、最後に、一見まったく関係なさそうな話をさせてほしい。

しなきゃを減らして、やりたいを増やそう

私は今、AIやデジタル化を使って、中小企業の総務やバックオフィスを支える仕事をしている。人の話から急に畑が変わったように見えるかもしれない。でも、根っこは、まったく同じだ。

多くの会社では、社長も社員も、日々の「しなきゃいけないこと」に追われて、挑戦を考える余白がない。やりたいことを思い描く前に、目の前の雑務で一日が終わってしまう。

実を言うと、私は会社員の頃からこれと戦ってきた。周りがどれだけヒマでも、自分が手を挙げた挑戦には時間が要る。その時間を捻出するために、私は社内のデジタル化を進め、SaaSの導入のみならず、開発が必要なときはプロジェクトリーダーを買って出た。つまり私は、ずっと前から——「しなきゃ」を仕組みで減らして、「やりたい」のための時間を作ることを、やっていたのだ。

今はそれを、AIの力を借りて、お客様の会社でやっている。雑務を、極限まで圧縮する。すると、社長には挑戦と向き合う時間が生まれ、社員には「やりたい」に手を伸ばすための余白が生まれる。——雑務を消すことは、地味に見えて、実は最強の人事施策だと思っている。

大きな仕事をするには組織スラック(組織の時間的な余裕)が必要だという理論がある。これは私も実感としてもっていて、普段の業務とは異なるプロジェクトにあたる際は、片手間では出来ないことをはっきりと理解している。
デジタル化やAIでの自動化を進めることは、まさに組織スラックを生み出すための道具なのだ。

おわりに

立派な人事制度を作る前に、たった一つだけ、問うてみてほしい。

社長であるあなた自身は、今、挑戦しているだろうか。社長の一挙手一投足は会社の法律といってもよいくらいに社員はそれをくみ取り反映する。

私はかつて、人を挑戦に巻き込んで守りきれなかった。その悔いがあるから、今度こそ、最後まで責任を持って挑戦したいと思っている。正直なところ、立派なことを言える立場ではなく、偉そうに述べてきたことを実践できているかと言われると、全然出来ていないのかもしれない。

人生は選択の連続だ。社員にも当然、会社に残るか去るか、という選択肢がある。
経営者としてはそれを誠実に伝えた上で、自分の会社を選んでもらえるように努力する必要があると考えている。

「しなきゃ」を減らして、「やりたい」を増やそう。 これは、私がこれまでの人生をかけて確かめてきた、たった一行の結論。

もし、組織や人のことで行き詰まっているなら一度、雑談のつもりで話しませんか。
制度を売りつけるつもりはありません。

あなたの会社が、社員と一緒に挑戦できる会社になるために、何から手をつければいいか。
私の失敗もふくめて全部お話しします。

この記事を書いた人

株式会社 ai-soumu(エーアイソウム)
代表取締役 上瀬戸研次
中小企業診断士

事業会社にて18年に渡り経理・総務・人事・情報部門といったバックオフィス業務に従事。
会社設立後はバックオフィスの業務改善・DXの専門家として、IT導入補助金を活用してクラウド会計をはじめ、各種SaaSの販売および導入支援を行う。

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